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n060『ストラスブール』

忙中閑ありではないが、1月4日からストラスブールに来ている。この地とカールスルーエ、ハイデルブルグのトラムによるまちづくりを確認するのが主たる目的ではあるが、日常から離れ、固まった体と頭を開放するのも目的のひとつ。ルフトハンザのプレミアムエコノミーに座ったときから解放されすぎてしまい、ウイスキーの飲みすぎもあって、フランクフルトに降り立った時には、風邪気味で鼻をぐずぐずさせる始末。ストラスブールまでは同じルフトハンザのエアポートバスで直行だが、連絡の時間がありすぎるのが少々難。バスは2時間少しで、すでに真っ暗な20時にストラスブール駅前に到着も、日本時間では朝の4時だ。最近は、夜中関空発のトルコ航空で朝乗り継いで午前中に目的地に着くパターンが多いが、このほうが楽な気がする。ともあれ、早々にベッドに入り翌朝起きるが相変わらず風邪気味で、近くの薬局で薬を購入。朝、昼、夜の薬と夜中の薬の形が違うのが面白い。そのまま、ストラスブールの市内探索に。トラムの24時間券が4.3ユーロとは、なんと安いことか。当然バスも乗り放題だ。早速、欧州議会棟などのあるエリアまで試乗。帰りは歩いて旧市街まで。市内散策で様子をつかむ。車を旧市街から排除して、歩行者主体の街づくりを進めているが、車軸を廃し全低床としたトラムのデザインが良い。窓も大きく開放的にして、そこから見える景色を同時に整える目的は、確かに素晴らしい。翌日は、フランス国鉄とドイツ国鉄を乗り継いでハイデルブルグまで。フランスから通しの切符を買ったのは大きな失敗で、帰りは、カールスルーエまでとそこからストラスブールまでを分けて買ってずいぶんと安く買えた。カールスルーエからは、トラムの軌道と国鉄の軌道を連続して走るトラム&トレインが市内に乗り入れていて面白い。しかし、以前にスイスのクールで見た時のほうが衝撃で、いかつい国鉄の列車がトラムの軌道を走っていたからだ。最終日は、ストラスブールのトラム7路線(最後のG線は現在バス路線)の全線を乗りこなし、周辺の街の様子と街づくりの様子を確認。

No.175(2003.10.17)『ジョゼッペ・テラーニ』 15日迄ヴェローナからコモに行っていた。「「サンテリア幼稚園」では、空間の輪郭と構造枠組みとを二分したことで、そうした乖離は「対比」へと転化し、この建築の空間の対位法を形成している。こうした点では、「サンテリア幼稚園」はテラーニの建築が辿り着いたひとつの里程標である。ファシスト党地方本部という「カサ・デル・ファッショ」の背後にある強い政治性と、正面ファサードに顕著な幾何学的秩序とは緊密に繋がっていたはずであり、それが空間的なインスピレーションにひとつの「拘束」を生み出すことになったとするなら、「サンテリア幼稚園」で実現された明確な空間の対位法は、拘束から解き放たれた「自由な」空間詩学を可能にさせたと言えよう。大きなガラスに囲われて光に満たされた教室の緩やかな空間的連続は、秩序による拘束からはいまだ自由な幼児たちが闊達に走り回る「解放感」とも重なり合う。」鵜沢隆 No.176(2003.10.23)『東雲』 東京の会議のついでに、東雲の集合住宅を見てきた。雑誌では、まわりの環境や周辺との関係がよくわからないわけで、住宅の内部やファサードに焦点があてられていたのだが、行ってみて正直、ムムム。周辺を含む将来像が不明なので、あまり断定は出来ないのだが、巨大な箱というだけの印象だ。そもそも殺縛とした場所だが、それでも豊かな水量を誇る川に接しているのだから、その風景や存在を敷地(街区)の中に取り込んだりして、多くの住民や敷地のこちら側の人たち、町に享受させようという、いわゆるアーバンデザインのない配置構成が大きな問題に感じる。参加建築家の対談では、全体の構成やボリューム配置が決まっていたそうだから、彼らも困っただろうと想像できるが、群としての、親空性、親水性、親街路性などへの視点が感じられないのが残念だった。ひさしのないガラスボックスのカーテンファサードも貧弱な風景に思う。 No.177(2003.10.28)『都市環境デザインのファッションとモード』 週末は第12回の都市環境デザインフォーラム・関西で、今年は冒頭のテーマ。投稿によるテキストも出版された。ファッション=流行、モード=様式という捉え方で議論は進められたのだが、ファッションの創造という意味だと考えれば、世の中の既成のものに対する批判なわけで、私はそういった捉え方に着目したい。私の投稿の題材は「パンチング・ウインドウ」「われわれの時代には、新しい装飾など考案されないことこそ、この時代が偉大なることのあかしなのではないか、われわれは装飾を克服したのだ・・・装飾のないことは精神的な強さのしるしである・・・」と「装飾と犯罪」1908で主張したアドルフ・ロースによるロース・ハウスは、周辺の雰囲気を壊すとして市民による建設反対運動まで起きたが、後世、ウイーンの社会・文化批判の建築的実践であり、いとも簡単にきっぱりと過去と決別した後の近代建築とはまったく異なるものであると評される。

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